once in a while Reblog
私はこの何年も次のことを学生たちに言い続けている。
- データは情報ではない (Data is not infoamtion)
- 情報は知識ではない (Information is not knowledge)
- 知識は知恵ではない (Knowledge is not wisdom)
「深さ」と「スピード」 - Distribution Revolution - インターネットとコンテンツ配信 (via tsuda) (via yaruo) (via sakuma) (via mediapicnic)GEISAI大学、2回目は森川嘉一郎。
メモしたことをメモします。
内容の正誤についてはいっさい責任持ちませんよ!
いそいでメモしてたり、自分の脳内補完してるところが多々あるんで、
ここに書いてある内容が実際の発言とすべて合っているとは限りませんよ!
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日本の美術教育の偏りについて
・フレーベル
→キンダーガーデン=幼稚園という言葉を作った人。幼児教育の祖。知育玩具を作った。子供に対しての情操教育を発案。
・バウハウス
→美術の歴史をおさらいしたうえで、新しいものを創造させる方法
(※ちょっと遅刻してこのあたりは聞き逃した部分もあるんで不正確かもしれんです)
・フレーベルとバウハウス、このふたつを奇妙なミックスをして日本の美術教育は成り立っている。
・「美術の教育」をするのではなく→「美術を通した情操教育」をおこなうのが日本の美術教育
→美術は目的ではなく、情操教育のための手段
→美術は主要なものとしてみなされていない
・義務教育でよくあるパターン
〈授業で絵を描かせる〉 → 〈生徒が漫画やアニメっぽい絵を描く〉 → 〈その絵を教師は評価しない〉 → 〈なぜか?〉 →
〈教師曰く「それは誰かの絵でしょう?」〉 → 〈つまり模倣はよくない、という論理〉 →
〈見えたまま、感じたままが正しい〉
・義務教育で評価される絵は、様々な色を使った絵。単調ではない色使いをすると先生が納得する。ガラスをただ水色に塗ったら、または肌をはだいろで塗ったら教師は評価しない。
・つまり、「印象派風」の絵を評価している
・それは、印象派が先端だった時代に日本で美術教育の基礎ができたことと関係ある(?)
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海外の美術教育はどうなっているか
・日本の美術の教科書→薄い/自己の発見云々と書かれている/図版大きい、多い
・ヨーロッパの教科書→厚い/歴史的に書かれている/文字が多い
・ヨーロッパの美術の授業は「様々な画家を模倣した絵を描く」ことと「その絵が描かれた時代背景を言葉で説明する」こと。
・ヨーロッパの美術教育は「ボザール」とそのアンチである「バウハウス」を両輪としておこなわれている。
・日本の美術教育の危うさとしては「なぜ美しいのか」ということについて盲目的になること。
・本来「美しい」とはその時代の政治的、歴史的背景が関係している。
・内発的なものを信じすぎると、だれかが印象操作していることに気がつかない。
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ヨーロッパの美術史について
・美術史はふつう古代ギリシャから始まるが、その歴史自体偽物といえる
(※この言葉の真意は不明)
・パルテノン神殿→もともと木材でできていたものを模倣したもの
(※ソースは不明。本当に?!)
・ヨーロッパの建築は過去の美を雪だるま式に積み上げて成り立っている
・ロールスロイスのグリルもパルテノン神殿がイメージされている
・15世紀までの価値観
自由市民 →リベラルアーツ、詩、音楽、天文学ーー知能、頭脳を使う仕事ー学芸(ART)
奴隷 →労働技術ーー技能ー技術(CRAFT)
→詩や音楽は高級。絵画、彫刻、建築など肉体を使う仕事は低級。という価値観。
→言い換えるならば「理論と抽象」を扱うことが高級で、「具象」は低級という価値観。
→ここで表出されている価値観はいまでも根深くある
→こうした考えが美術を生む大きな原動力にもなっている
・15世紀以降(ルネサンス以降)
→理論を注入することによって美術は地位の上昇を計った。
→理論とは、幾何学、解剖学、遠近法などのこと。ダヴィンチなど。
・18世紀(ロマン主義)
→産業革命、市民革命という時代背景
→応用芸術(デザイン)という分野が生まれる
・それまでの「芸術」と「技術」が、「純粋芸術」「応用芸術」「技術」に分かれる。
・技術=職人、応用芸術=デザイナー、純粋芸術=天才・芸術家。
・「新しいものをつくるのが美術」という価値観はここで生まれた。(それまでは模倣が主であった)
・市民革命
→王侯貴族は悪である
→古いものは間違っている、新しいものこそ正しいという価値観
・さらにダーウィンの進化論も「新しいものこそ正しい」という価値観を後押しした
(ダーウィンが「種の起原」で提唱した「人間の祖先はアダムとイヴではなく、皆同じサルから進化した」という説は西洋人にとってアイデンティティクライシスだった。
そこで、サルより人間のほうがあとにでてきた、つまりサルより人間のほうが優れているという理屈で納得しようとした。こういう背景も、「新しいものこそ正しい」という価値観を後押しした)
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・近代
ハイアート(高級=創造的=新しい)
デザイン、ローアート(低級=模倣的=古い)
・グッドデザインといわれるものも、前衛芸術の模倣であった。
(例えばモンドリアンの絵画を元にしたリートフェルトのチェア。)
・前衛芸術をデザインに取り入れる→バウハウスの根本的理念
・ちょっと昔からイメージソースを持ってくるとキッチュになる
・だから、美術とはかけ離れた世界から転用する
・ローアートをハイアートに転用したのはゴーギャン(タヒチ)、ピカソ(アフリカ)。
・なぜ村上隆のアートにオタクは怒るのか?それは直感的にオタクは自分たちが「土人」扱
いされていることに気がついてるんじゃないでしょうか。
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現代
・「ローアート→ハイアート→デザイン」というサイクルではなく「ローアート→デザイン」
というように、ローアートがいきなりデザインに使用されるようになってきた
(たとえば、アイデアの表紙をよつばが飾ったように)
・キャラクターというのは過去の模倣である
・バウハウス流の美術教育ではキャラクターは扱えない
・キャラクターは美大芸大では教えられていない
・キャラクターを使った教育メソッドは確立されていない
・お台場のガンダムは現代の仏像になっている
・今度、肩にオリンピック招致のマークがつけられることになった。権力に使用されるところ
も仏像にそっくりだ。
・お台場は都市博の墓場
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秋葉原の二重構造
・雑多なビルの背後に、モダンなビルが建ち並ぶ
・どちらのビルを美しいと思うのか、どちらが好きなのかを自問自答すると内在的な価値観が
みえてくる
・キレイなビル(世界中どこにでもある場所)、舶来主義
・アキバの雑多なビル(世界でここしかない場所)
→アニメキャラがスカイラインを飾るのは世界でここだけ
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宮崎アニメと世間の評価
クラリス(79)・ナウシカ(84)・シータ(86)
通称:姫御三家
性格も見かけも理想化されている
↓
当時のおたくの「宮崎は姫しか描けないのか」という揶揄
↓
サツキ、メイ(88)
キキ(89)
・
・
・
宮崎アニメはヒロインがブサイクになれば評価(賞)がついてくる
=オタク性の払拭
84年は「風の谷のナウシカ」と「うる星やつら」が公開された年
ヒロインの描き方としてナウシカの延長線上にいるのが千尋(千と千尋)や、草薙素子(攻殻機動隊)
ラムちゃんの延長上にいまの萌えアニメの絵がある
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文化庁メディア芸術祭
→キャラクターを排除した作風の作品が受賞している
黒田硫黄の漫画の大友克洋の推薦文「黒田硫黄氏はキャラクターやエロに隷属された漫画界に
あって、真にセンス・オブ・ワンダーを持った作家である」
→漫画界のなかでも価値観が分離している
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・いまの日本の美の価値観はどのようにして作り上げられたのか
→ブルーノタウトの存在
・当時の日本の建築様式
→帝冠様式と近代様式(モダンスタイル)
→近代様式推進派がブルーノタウトを日本に招待
・ブルーノタウト
→日光東照宮は「いかもの」として美しくないと評価した
→桂離宮は「ほんもの」として美しいと評価した
・近代様式推進派「ドイツ人のタウトも美しいと言っている。構築的なものこそ美しいんだ」
ある意味でタウトは利用された
・タウト以降の美の基準は桂離宮。しかし、タウト以前の美の基準は日光東照宮。
それ以前の万国博覧会では、日本から出品されていた工芸品は、日光東照宮タイプの装飾的で
カラフルなもの
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おわりに
・モダン→上品 アキバ的→下品
・外人(ブルーノタウト)を利用して価値観をコロッと変えたということは、またしてもコロッと変わることもあり得る。
・アニメの政治的利用
・政治に近い場所にアニメが使われる
→国交省の例
・これからは今までのバウハウス的な価値観が通じなくなることもある
・オタクは市民権の得られない方向に向かう習性がある。自ら作りだす。
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渋日記: 「ソースコードをきれいに書く唯一の方法」は4つあるそうそう、子どもが「王様は裸だ!」と言ったら、大人は、こういさめなければならない。
「服を着た王様ってのは、いないんだよ」



